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2020/01/18 11:00

韓国映画の衝撃「なぜ『パラサイト』はこれほどの賞賛に値するのか」を紐解く4つのメタファー

『パラサイト 半地下の家族』より
『パラサイト 半地下の家族』より

 1月13日に発表された第92回アカデミー賞候補作に、ポン・ジュノ監督の新作『パラサイト 半地下の家族』が作品賞を含む6つの部門でノミネートされた。韓国映画としては史上初のノミネートとなる、まさに歴史的な快挙となった。

 遡ってみても、昨年のカンヌ国際映画祭で、これまた韓国映画初となる最高賞パルム・ドールを受賞したことはもちろん、アメリカの映画批評サイト「Rotten Tomatoes」では、批評家レビューの100%が支持評価を下すなど、『パラサイト』に対する、桁外れの評価が世界のあちこちで見受けられた。興行面においても、韓国国内では累計観客動員数が1000万人を越え、フランス、台湾、香港など、いくつもの国や地域で爆発的なヒットを遂げている。

 私自身もまた、この映画をTOHOシネマズ日比谷の先行上映で(何度か繰り返して)鑑賞し、この評価の高さにも納得できた。まさに傑作の名に恥じない作品であると思う。(*以下の記事では、『パラサイト』の内容が述べられていますのでご注意ください)

「格差」はついに埋まらない

『パラサイト』のテーマを挙げるとすれば、「格差社会」となるだろう。全員が失業中の低所得層のキム家が、IT企業を経営する富裕層のパク家に「寄生」をはじめることから物語は始まる。

 作中では、両家のあいだにある「格差」が嫌と言うほど強調されることとなるのだが、これは残念ながら、韓国の現状から乖離した設定とは言えないだろう。近年の韓国における所得格差は著しく拡大しており、雇用率もまた低下の一途を遂げている。2017年の統計では、相対的貧困率(その国や地域の大多数よりも貧しい人の割合を指す)が65歳以上で43.7%という数字が出ている。

 そして、このような問題は韓国に限ったものではない。6人に1人が「貧困層」と呼ばれ、失業者や非正規雇用者の生活基盤の低下が声高に叫ばれる日本にもまた身近なものであるはずだ。奇しくも『パラサイト』の前年、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、日本でも大きな注目を浴びた『万引き家族』(是枝裕和、2018年)もまた貧困層にスポットを当てた作品であった。

 そんな本作で私が一番に驚かされたのは、作中において、この格差がついに埋まることがなかった点だった。最後には何かしらの大逆転が起こるのではと予想しただけに、むしろ「格差社会」が不変であることを強調するような、本作のラストは(もちろん悪い意味ではなく)意外だった。

 

 思い返せば、ポン・ジュノの過去作『スノーピアサー』(地球の大規模な寒冷化ののち、生き残った人類を乗せた列車の内部における、「前方」と「最後尾」の住民間の貧富の差を描いた作品)のラストは、まさに『パラサイト』とは真逆だった。そこでは、生き残った人類を乗せていた列車が脱線し、崖の下に落下したことによって、列車から放り出された人間たちは必然的に「外の世界」で生きていかざるを得なくなる。つまり、これまでとは大きく異なった新しい生活の基盤、ひいては社会形態を作ることが求められるわけだが、『パラサイト』では対照的に、貧困層のキム家は今までと変わることのない(むしろ以前より悪くなった)、既存の枠組みの中で生きることを余儀なくされてしまうのだ。

「資本主義の終わりを想像するより、世界の終わりを想像することのほうがたやすい」と述べたのは、思想家フレドリック・ジェイムソンだった。この言葉に理があるとするならば、本作のラストはことさらにペシミスティックなものというより、むしろ現代的な、リアリズムに立脚したものであるのかもしれない。

「上」と「下」の格差を表す“メタファー”の豊かさ

 ところで、「半地下の家族」とは、日本オリジナルの副題である。「半地下」とは直接的にはキム家の住む、地表からわずかに窓だけが出た住宅のことを指す。韓国ではもともとは北朝鮮からの攻撃に備えた防空壕として建てられ、やがて低所得者向けの住宅として普及していったという。「半地下」について、ポン・ジュノは来日時のインタビューで以下のようにコメントしている。

半地下ということは、別の言い方をすれば半地上とも言える訳です。半地下にいる人たちというのは、地上に出ていって日差しを浴びたいと願っているんですが、一方では下に落ちてしまったら完全な地下に墜落してしまう、その不安も抱えています。「半地下」を強調する邦題は、主人公が置かれているそうした状況をうまく表していると思います。

 

(『キネマ旬報』、キネマ旬報社、2020年1月上・下旬合併号、p.71 インタビューより)

「日差し」と言えば、はじめてキム家の長男・ギウがパク家を訪れた時、カメラは緑の広がる庭を映し出すとともに、白くきらきらと反射する日光の存在を強調する。これは本作において、これまで画面の主軸であった半地下の住宅から、別世界に足を踏み入れたサインのような効果を醸し出している。

 いっぽう、上記の発言において「日差し」の対義語となる、「完全な地下」とはどのような場所を指すのか。本作に立脚して考えれば、陽光が入るか、入らないかということ以前に、Wi-Fiのつながる余地のない場所であるのかもしれない。冒頭、ギウはスマートフォンが(隣家の)Wi-Fiにつながらずに右往左往するが、家のなかでもっとも地上に近い便器のそばで、「ようやくつながった」と安堵する。

 インターネットとは、(やや大げさに言うならば)文明社会を生き抜くためにはほとんど必須のツールであり、これを失うことは、(少なくともギウや妹キジョンの世代で言えば)ある階層以上からのシャットアウトを宣告されるに等しい。そうした命綱を維持できるか、ぎりぎりの瀬戸際に立たされているキム家のメンバーは、より良い幸福を夢見てパク家に「寄生」する。『パラサイト』ではその「寄生」のあり方を通して、韓国社会における「上」と「下」の格差を重層的に描いている。

 しかし、経済格差を物理的な「上」と「下」に分けて描く作品は、映画史的にもポン・ジュノ的にも、決して目新しいわけではない。では、なぜ『パラサイト』はこれほどの賞賛に値するのか。それはひとえに、表層的なテーマにとどまらない“格差を表すメタファー”のバリエーションの豊かさに起因している。

(1)階段の「上と下」

 まずは「階段」である。序盤、寄生の第一歩として学歴を詐称し、パク家の長女ダヘの家庭教師に任命されたギウは家を出る。本作ではじめて階段があらわれるのはこのシーンで、ギウは家から階段を上がって歩道に出る。やがて坂を上り、到着したパク家のインターホンから邸宅のドアまでは、また階段が存在する。家にあがったのちも、ダヘの部屋にいくためには階段がさらにあらわれる。いったい、スタート地点のキム家とはどれだけ高低差があるのやら、と思わせられるが、こうした過程が描かれることで、キム家にとっての「雲の上の存在」としてのパク家が強調されている。

 地上へと続く階段を通して、「上」と「下」の生活の格差があることが読み取れるのである。

(2)ベッドの「上と下」

 物語の軸となる“パク家のある秘密”は、ちょうど劇の中盤あたりで明かされることとなる。その重要シーンでは、キム一家はパク一家の留守に、豪邸で好き放題くつろいでいたものの、予定よりもその帰還が早まったことにより、キム一家は家政婦として留守番を任されていたチュンソクを除き、家のどこかに隠れる必要に見舞われる。そしておのおの、ベッドや床のくぼみに隠れることになるが、何も知らないパク家の人々は、その上(に該当する地点)でくつろぎ、夫妻にいたっては性行為にふけろうとする。いつ見つかるかわからないという緊迫感(キム家)と、忙しない雑事から解放されたくつろぎ(パク家)という心情の対照性も、この「上」と「下」の断絶として、また印象的である。

 また、上と下という「縦」ではないが、『スノーピアサー』から受け継がれたかのような、「横」の断絶も『パラサイト』には存在する。

(3)室内と室外

 “パク家の秘密”が明らかになった夜、パク家の息子ダソンはかねてより夢中になっているインディアンの格好をし、庭にはったインディアンのテントで眠りにつこうとする。いっぽう、室内のパク夫妻も眠りにつこうとするが、ダソンとパク夫妻は透明なガラスの大窓で隔てられており、この配置は象徴的である。

 インディアンとは言うまでもなくアメリカの先住民族であり、ヨーロッパから移住してきた白人たちに迫害され、辺境へ追いやられていった民族である。「Everybody」など会話に適宜英語をまじえ、アメリカナイズされた資本主義のもとに生きるパク家とは境遇からして対照的であり、ガラスの大窓をへだて、アメリカから伝播した資本主義の恩恵を受けた家庭と、アメリカの成立にともなって駆逐された民族という、対照性があらためて強調される。「室内」と「室外」という違いも、その強調に寄与していることは言うまでもないだろう。

(4)「匂い」でも表現された両家の対照性

 両家の対照性は、「上と下」というメタファーで表現されるにとどまらない。「上と下」に次いで重要となるのが、「匂い」の存在である。

 話がやや前後するが、ギテクは運転手としてパク家に入り込むために、前任の運転手にカーセックス疑惑を押し付ける。具体的には、すでにダソンの美術教師としてスカウトされていたギジョンが、送迎中の車内でパンツを脱ぎ、車中の目につきやすい場所に滑り込ませるのだ。これによって運転手は解雇され、ギテクの内部への侵入は成功するのだが、ここで重要となるのが「匂い」で、カーセックスの証拠としてパク家に持ち込まれた、パンツに鼻を近づけたヨンギョは露骨に臭そうな反応をする。ここで最初にキム家の「臭さ」が提示されるが、のちにあるセリフから、キム家のメンバーはこうした「臭さ」を共有しているであろうことが観客に明示される。

 もちろん、その匂いは画面越しに観客に伝わることはないが、この「臭さ」を理解するための補助線として、冒頭のトイレのエピソードが機能する。情報を得るためにトイレに張りついていなければならないような状況では、臭みが体に定着することも無理はないはずだ。さらに言えば、そもそも日光の当たらない湿気の多い室内では、充分な清潔感が確保されるとは想像しにくいだろう。

「臭さ」がさらに説得性をもって伝えられるのは後半で、こうしたシーンの繰り返しによって、「匂い」は自明なものとして作中に定着し、ひいては臭みを発するキム家とそれに嫌悪を覚えるパク家という、両者の距離感をさらに浮き彫りにすることともなる。

 こうしたメタファーは、単に「その役割を果たすのみ」に終わらない。たとえば「階段」の場合、映画のサスペンス性やアクションを盛り上げることにもまた寄与する。パク家における階段は死角のような位置にあり、キム家のメンバーがパク家の内部で隠れる際、また聞き耳をする際は階段のわきに忍び込む。また、ある時は自身の敵となる存在を、階段の上から突き落としたりもする。つまり階段は隠れ蓑としても、決闘の舞台装置としても機能するのだが、こうした複数性が担保されることで、設定としてのあざとさは払拭されることとなる。

パク家は「悪人」として描かれていない

 ここまで作中において、目や耳に訴えるかたちで登場するさまざまな「格差」の例を挙げたが、冒頭でも述べたようにこの差は劇中でなくなることはなかった。では、「格差」が残る本作に救いはあるのか。あるとすれば、他者への想像力を伸ばしたことで生まれた、ある「気づき」を提示した点だろう。

 本作においては、パク一家は若干の嫌味っぽさは目につくものの、けっして「悪人」として描かれてはいない。ただ、彼らに「罪」があるとすれば、それは他者への想像力を、ほんの少しだけ欠いていたことである。作中では大雨による洪水で、多くの地理的な「下」に住む市井の人々が、被害を受けてしまうシーンが登場する。多くは体育館らしき場所への避難を余儀なくされるが、高台に住んでいたため、被害のなかったパク家は特に意に介することもなく、それどころか翌日は能天気に(といっても差し支えないだろう)自宅でホームパーティーを開こうとする。

 また、4年近くも生活圏で鳴らされていた、「S・O・S」のモールス信号に気づくことがなく、たんなる電灯の不調ととらえていた点からも、パク一家の想像力の低さは了解できるのではないだろうか。自分たちよりも弱い存在にあまりに無関心であったことが、本作ではまさに取り返しのつかない事態を招いてしまう。

 このモールス信号は、ラストでも大きな役割を果たすこととなるが、その意味に気づいたのはほかならぬ若いギウだった。

「モールス信号」、いわゆる、声にならないような弱いS・O・Sは、何も映画の中だけに存在するものではない。おそらくは、私たちの日常においても至るところに存在する他者からの叫びに、少しだけ想像力をめぐらせること。そこから得た気づきを、新たな行動の指針とすること。絶望の中にわずかな、文字通りの「光」を見いだしたギウの姿勢は、そうしたことを観客に訴えかけているように思えてならない。

(若林 良)



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