2019/01/29 06:30

映画は、小説と共にある。村上春樹の映画化にみる、文学と映画の蜜月

(C)2018 PinehouseFilm Co., Ltd. All Rights Reserved

『オアシス』(2002年)、『シークレット・サンシャイン』(2007年)などで知られる韓国の巨匠イ・チャンドンが、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を映画化した。その名も『バーニング 劇場版』(2月1日より公開)。これが素晴らしい。世界的作家である村上春樹の小説は、国内外の監督たちによって様々に映画化されているが、ことによると本作はその最上位といっていいかもしれない大きな成果をおさめている。

熱狂的な村上春樹ファンがどのような判断を下すかは皆目見当もつかない。だが、少なくとも映画ファンにとっては、村上春樹作品を出発点に、これだけ魅惑的で胸震わせる映画が生まれたことは、心から喜ぶべき幸福なのではないだろうか。

解釈は、より高い次元にジャンプするためにある

イ・チャンドンは「納屋を焼く」の映画化を熱望していたわけではなかった。NHKからの「村上春樹の短編からどれか選んで映画化してくれないか」というオファーに応じただけである。

しかもセレクトはイ・チャンドンではなく、若い脚本家の「これなら映画になるのではないか」という申し出があったからだという。消極的といえば消極的。しかし、昭和58年に書かれた「納屋を焼く」をイ・チャンドンは見事、2010年代末期の韓国に移し替えて、文学への敬意と映画の独自性を同時に成立させている。快挙といっていい。

イ・チャンドンには小説家として活動していた時期もある。だからだろう、多くの春樹映画化が原作への「愛の表明」に傾きがちな中、冷徹に、そして慎重に、原作を紐解き、独自の解釈を施している。しかも、解釈のみには留めていない。解釈はあくまでもステップボードである。より高い次元に跳躍するための。彼は記者会見で次のように述べている。

「村上春樹は新しい文学です。表向きにはとても洗練されていて、自由な世界を描いているように見える。しかしそれは、非常に複雑になり曖昧模糊(あいまいもこ)とした世界に対応するための必然だった」

これは卓越した視点ではなかろうか。洗練や自由は、複雑さや曖昧さに対する抵抗なのである。筆致は、世界と向き合ったとき生まれ出づるものでなければならない。

イ・チャンドンは、現代と向き合った。そして、この世界と格闘するために、村上春樹の洗練と自由を援用し、小説のさらにその先へと舵を切った。

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映画が、小説と「共にある」とはどういうことなのか

主人公は幼なじみの女の子と再会するが、彼女は整形していてまるで別人だった。アフリカに旅に出るという彼女は留守中、自分の部屋で猫に餌をやってほしいと主人公に頼む。彼は承諾するが、部屋に行っても、その猫はどこにもいない。やがて、帰国した彼女の傍らにはどうやら富裕層であるらしい青年の姿があった。3人で時を過ごすようになるが、ある日、突然、彼女は姿を消す――。

かいつまむことは難しい(だが、決して難解ではない。ここが重要な点だ)が、あらすじを綴ればこんな感じだ。原作にあるのは、アフリカ、富裕層の青年、3人で過ごすかけがえのない時間、そしてヒロインの消失。不在の猫は、いかにも村上春樹が描きそうだが、映画オリジナルだし、主人公とヒロインの関係も、原作とは違う。

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では、設定だけを借用して、監督が自分本位に物語を作り変えているのか? といえば、まったくそうではない。むしろ、短編小説(文庫版で31ページ)を長編映画(2時間28分)へと発展させるためにすべては必要だったと思わせられる、有意義きわまりない改変であり、付与なのである。

なにしろ、この映画で最も印象的なシーンと台詞は原作からのものである。ヒロインはパントマイムを習っているが、蜜柑をむいて食べる姿を披露した後、こんなことを言う。「要するにね、そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」と。

ないものをあると思いこむのではなく、ないという現実を忘れること。村上春樹が小説のわずか3ページ目に記したこの決定的な言葉が、映画の通奏低音となっている。わたしたちは、猫の姿が見えないときや、主人公が幼なじみであるはずのヒロインと想い出を共有できずにいるときに、この言葉を思い出す。そして、その彼女が行方不明になったあと、さらにいえば、小説では描かれなかった映画ならではの結末を目撃したとき、より深く、痛切に、この言葉がよみがえることになる。

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小説の映画化は、何がどう異なっているかだけが問題になりやすい。だが、活字で綴られたことのみに忠実であることが、はたして、その小説にふさわしい映画化なのだろうか。

忠実であることは、従順の表明である。従順を表明することで、愛を宣言したような錯覚に陥る。結果、映画をクリエイトするという「創作」を放棄することにもなりかねない。

イ・チャンドンは、愛ではなく理解で、村上春樹作品を映画にしている。従順であることを宣言する映画はある意味、小説の「奴隷」だが、そうではなく、小説とは明らかに「異国」なはずの映画という国の「同じ時を生きる者」として、原作に接している。

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イ・チャンドンには、次のような言葉もある。

「小説を原作として映画にする場合は、どんな作家の小説であっても、一読者としての視点を捨てて、自分の作品として出発しなくてはなりません。そのため、いつもと変わらず、悩みながら制作しました」

文学が上でも、映画が上でもない。映画が、真摯に文学に向き合い、映画としての己の意志を貫く。イ・チャンドンが本作で実現させたそんなアプローチに、「蜜月」を感じる。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)

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