2019/02/12 06:30

北山宏光、初スクリーンで魅せる唯一無二の人間像!

(C)板羽皆/集英社・2019「トラさん」製作委員会

Kis-My-Ft2のメンバー、北山宏光がスクリーン初登場にして、映画初主演を飾った『トラさん〜僕が猫になったワケ〜』(2月15日より公開)。その演技が素晴らしい。北山は本作で事故死した漫画家が猫として転生し、愛する妻子に「飼われる」束の間の日々を体現している。

メルヘンともコメディとも受け取られかねない物語だが、北山の揺るぎない芝居には一本筋が通っており、ありきたりのヒューマニティや、安易な笑いや涙に逃げこまない。徹頭徹尾、人間を演じることに注力している。北山の清々しいまでの表現力について記してみたい。

なぜ、彼は「愛される」のか

北山の演じる主人公・寿々男(スズオ)は、かつて猫漫画でヒットを飛ばしたものの、以降はパッとしない漫画家。妻のヘソクリをくすねてはギャンブルにつぎ込んでしまう、まるでヒモのような生活を送っている。だが、そんなダメ夫のことを、妻も娘も愛していることが序盤から伝わってくる。

なんで? どうして? そのとき、わたしたちは気づくはずである。人は、行為そのものによって否定されたり肯定されたりするわけではないということを。

理屈だけで考えれば、寿々男はとんでもないロクデナシだ。だが、そんなヤツを、それでも愛してくれるひとはいる。それはなぜか。彼が、この世でたった一人の、個性を有した人間だからである。

とりわけ、妻はこの男に心底「惚れてしまっている」ことがよくわかる。惚れてしまった以上、なけなしのお金をいくらくすね取られても、嫌いにはならないし、なれない。

北山宏光のすごいところは、映画の幕開けに示されるこの基本設定を、一切「いいひと」を演じることなく、説得力豊かに体現している点だ。前述したように、彼の生活はほとんどヒモ同然。だが、どこか憎めないし、このひとがそうしたいなら周りは許してしまうのかもしれない、と思わせる「何か」がある。

不躾な演じ手ではない北山は、そのサムシングをみだりに明かしたりはしない。家族だけがわかっていればそれでいいと言わんばかりに、平然と暮らしている。この、あからさまに優しさを誇示したりはしない、北山のデリカシーに満ちたアプローチがまず、素敵だ。

(C)板羽皆/集英社・2019「トラさん」製作委員会

「猫スーツ」で魅せる、人間・寿々男の深層心理

主人公・寿々男は映画が始まってかなり早くに事故死する。そして現世に未練たっぷりの彼はよみがえる。ただし、猫の姿で。 

寿々男は実は猫が嫌いだったが猫漫画を描いていた、ということも綴られるが、そのことにもあまり深入りはしない。とにかく、好きでもない猫の姿で、寿々男は最後の日々を送ることになる。

ここからが、すごい。他の人から見れば、もはや寿々男は一匹の猫でしかない。だが、本人としては、あくまでも魂は人間のつもり。このギャップを表すために、北山は「猫スーツ」なる猫の扮装で、芝居を続ける。一見、コントにしか思えないような扮装なのだが、北山の「逃げない」芝居は、観る者をみだりに笑わせない。

(C)板羽皆/集英社・2019「トラさん」製作委員会

そもそもこの姿は、寿々男が、せめてもう少しだけ家族のそばにいさせてくださいと懇願して手に入れた「ささやかな願い」の象徴である。北山は猫ならではの動きも想定しながら演じているが、「猫になりきる」ことに主眼があるわけではない。姿かたちは猫でも、心はあくまでも人間。猫になってしまった人間、ではなく、猫の姿を借りて家族のそばにいようとする一人の父親、という点が重要なのだ。

だから、北山の演技は、猫の形態模写には向かわない。そうではなく、寿々男が猫の姿になったことから「見えてくる」深層心理を、じわじわと明るみにしていく。この塩梅が、実にデリケートで、観る者の胸を愛撫する。 

寿々男は、自分が猫になったことを、当たり前のように受け入れている。人間だったから、不便は不便。しかも、家族には猫としか思われてないから、さみしいと言えばかなり、さみしい。だが、そんな次元で立ち止まってはいない。

これは寿々男がもともと有していたタフネスだ。そしてこの、ほとんど理屈を超えたようなタフネスがこの人物の魅力の一つであることが、北山の芝居からは伝わってくる。漫画家としてのささやかなプライドや、妻や娘に対するぶれることのない想いもまた、このタフネスに連結されていることがわかってくる。

北山宏光はこれ見よがしな素振りは見せない。このひとはこんなふうに生きてきたし、今もこんなふうに生きている。ただ、そのことを直感させるだけ。しかも、猫の扮装のままで。

(C)板羽皆/集英社・2019「トラさん」製作委員会

すべては「日常」の中で起こる

悲しいはずの物語を、北山は悲壮感抜きに表現している。死んじまったモンはしょうがねぇ。彼は人間としては生を終えてしまっている自分のことを憐れんだり、残りわずかの時間にしがみついたりせずに、あくまでも「日常」として過ごしている。この風情がたまらない。 

猫になって生きる。これは特殊な事態ではあるが、彼にとっては、これもまた日常なのだと思わせるものがあるし、人間にとって大切なことは、すべて日常の中で起きている。そう感じさせるものが、北山のカジュアルで気どりのない芝居からは伝わってくる。

どんなにドラマチックなことも、どんなに切ないことも、どんなに幸せなことも、どんなに泣きたくなるようなことも。それは非日常ではなく、あくまでも日常なのだということ。 

北山宏光がここで見せている寿々男の生き様は、難儀で、報われず、あっという間に終わってしまう。ささやかな日々にも、その人だけの日常は必ず宿る、という真実に即したものである。

映画が終わったとき、わたしたちは、寿々男のことが大好きになっている。だが、その理由はよくわからないかもしれない。北山は理屈でこの主人公を肯定してはいないから。ただ、そのひとは、そのひとでしかない。このことだけを、北山は懸命に守り抜く。まるで、芝居などしていないかのような自然なありようのまま。

(C)板羽皆/集英社・2019「トラさん」製作委員会

もっとも優れた演技とは何か。それは、この俳優は、ほんとうはこんなひとなのではないかと、演じられたキャラクターを通して感じさせることである。 

この映画を観ていると、北山宏光の実像に接したような気分になる。それは錯覚だろう。しかし、彼が精緻にして、さり気ない本気の芝居から生み出した「唯一無二の存在」としての寿々男は本物だ。あのキャラクターの肌ざわりを思い出すだけで、なぜか愛おしくなる。こんな経験は滅多にできることではない。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)



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