2019/02/18 11:00

佐藤健ストイシズムの本質は「ヒーロー否定」にある

(C)“SAMURAI MARATHON 1855”Film Partners

佐藤健。とりわけ近年の彼の演技に接していて想うことがある。「このストイシズムはいったいなんだろう?」と。

それは、往年の高倉健が得意としたような、日本人の大好きな「耐える美学」を感じさせる「ストイックな役どころ」が続いている、ということではない。

あるいは、映画・ドラマに限らず、主演にこだわらず、準主役であっても、助演であっても、作品内におけるポジショニングに固執せず、のびのびとオファーを受諾している「ストイックな姿勢」、ということについて述べたいわけでもない。

そうではなく、「芝居そのものがストイック」なのである。

もともと、そうした資質はあったが、とりわけ『るろうに剣心』シリーズ(2012年、2014年)以降の佐藤健は、「演じる」という行為が急速にストイシズムに向かっている。

2月22日より公開する最新主演作『サムライマラソン』を観て得た、わたしなりの現時点での感触を言葉にすれば、次のようになる。「わたしはヒーローではない」。

現在の佐藤健の演技フォームから感じられる、決然とした意志(意識)表明は、つまりそういうことだと思う。

(C)“SAMURAI MARATHON 1855”Film Partners

俳優としての「得」を棄てる

『何者』(2016年)、『億男』(2018年)に顕著ではあるが、佐藤健の最近のアプローチは、たとえそれが主人公であっても、わかりやすく作品の中心部に存在しているわけではない、という点が重要である。

『何者』における能面のような表情。『億男』での狂言回し、あるいはホスト(相手の話の聞き役)と言っていい消極的な存在感。

無論、その芝居をつぶさに覗き込めば、彼がいかに繊細にして深く、さらに言えば難解かつ強度のある「アクション」(心理、身体両方の意味で)をものにしているかは理解できるのだが、物語のみを追いかけるような観客(これが案外、多い)にとっては、率直に「主役にしては地味だよな。佐藤健、イケメンなのにな」といったところではないだろうか。

佐藤健は、演技という「アクション」において、何かを目立たせようとはしない。たとえば『いぬやしき』(2018年)の助演(ここも重要な点だ)での、指先を中心とした所作の美しさには、もちろん吸引される。だが、それはあくまでも画面に対する貢献であり、木梨憲武扮する主人公との対比であり、来るべき対決場面を活気づけるツールの一つにすぎない。俳優・佐藤健が「得をする」ための表現ではまったくないのである。

さらに、『世界から猫が消えたなら』(2016年)では、一人二役を成功させたが、その演じ分けがあまりにも自然で、作品のすがたかたちに実にしっくりフィットしていたので、佐藤健自身の芝居が、わかりやすく「鮮やか」に映ることはなかった。

こうしたストイシズムは、ほとんど「裏方」と呼んでいいものであり、本来であれば、個性的なバイプレイヤーの仕事に宿る性質のものである。

とはいえ、「スター、佐藤健」に極端に抗って、演技派への道に邁進中、といった汗臭さは微塵も感じられない。新境地開拓やら、路線変更やらは、ストイシズムから最も遠く離れた貪欲な行為である。佐藤健には、この「欲」がない。

(C)“SAMURAI MARATHON 1855”Film Partners

個性豊かなサムライたちの中に潜む「忍び」

時代劇『サムライマラソン』で佐藤健は、忍びの唐沢甚内を演じている。

ときは幕末。鎖国が崩れようとしている時代。幕府に不満を抱く安中藩主、板倉勝明は、藩士を鍛えるために58キロメートルを走らせる「遠足(とおあし)」の大会を開催する。優勝者の望みは何でも叶えるという特典をつけて。

かくして様々な野望を抱いた者たちが、この日本史上初のマラソンといわれる大会に参加する。だが、その裏では、勝明を警戒する幕府の大老が、「遠足」を謀反の動きと見て、安中城に刺客を差し向けていた。この幕府の陰謀に気づいたのが、佐藤健演じる唐沢甚内。彼は、幕府の命令で藩に潜入している忍びであった。長い潜入生活で、安中藩の中に愛する者たちができた甚内はどうするのか……。

(C)“SAMURAI MARATHON 1855”Film Partners

しかし、この映画では、甚内の内面的な葛藤だけが描かれるわけではない。マラソンに参加した者たちのそれぞれの人間模様も、実に味わい深く綴られる。

姫との結婚を夢見る辻村平九郎は、森山未來の快演もあって、強烈なインパクトを残す。

一方、藩でいちばんの俊足でありながら八百長を持ちかけられ、そのお金に心が揺らいでしまう上杉広之進は、染谷将太の人物を慈しむような芝居によって、深い余韻をもたらす。

また、老体に鞭を打って、マラソンに参加する栗田又右衛門は、人間味あふれる竹中直人の熱演によって、観る者の心を温める。

だが、唐沢甚内は、忍びとして己の本音をひた隠しにして生きてきたため、彼らのようなキャラクター性があからさまに出るわけではない。我慢に我慢を重ねてそうなっている、というよりも、忍びとして生きてきたため、深層心理が表出しない、という状態がもはや当たり前になっている。そう感じさせるように、佐藤健は体現している。

この、静かなる説得力。それでいて、俳優としての存在感は一切誇示しない、聖なるストイシズム。これらの融合と、そこから生まれるグラデーションは、佐藤健が意志(意識)によってコントロールしているものである。そうでなければ、ああした表現には決してならない。

(C)“SAMURAI MARATHON 1855”Film Partners

作品を支える「忍び」として生きる

走ることがクライマックスとなる本作において、森山も、染谷も、竹中も、それぞれ個性的なランニングフォームを見せるのだが、佐藤健だけはきわめて匿名性の高い小走りに終始する。

「甚内は忍びだから」の一言で言い切ってはしまえるが、忍びにも様々な人間がいるはずで、そこで個性を発揮しようと思えばできるはずだ。しかし、佐藤健はそうした役者としての「欲」からは完全に離脱している。

わたしは、とりわけ、あの走りの演技のストイシズムに、佐藤健の(物語を牽引する「ヒーロー」とは逆の意味での)「本気」を感じた。「わたしは、作品のために生きている」という「本気」である。まさに「忍び」。

俳優のあり方として当然のことだと思うかもしれない。だが、この若さでここまでそれを徹底できている例は、ほとんどない。

(C)“SAMURAI MARATHON 1855”Film Partners

彼は、ときにヒーローも演じる。だが、その演技アプローチは決してヒーロー的ではない。佐藤健は現在『るろうに剣心』最新二部作に取り込んでいると伝えられる。今の佐藤健が演ずる「ヒーロー」緋村剣心に出逢うとき、わたしたちは何を思うだろうか。

この俳優は、ヒーローのあり方だけではなく、主人公という存在そのものもスライドさせている。佐藤健ストイシズムが、これからどのように深化(既に「進化」しているので、これからは「深化」するばかりだ)し、わたしたちの感性をどこまで連れて行ってくれるのか。楽しみで仕方がない。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)



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