2017/10/31 20:30

五輪出場することでしか自分自身を乗り越えられない〜元陸上競技ハンマー投げ選手・室伏由佳

SPORTSカテゴリーでは、「元アスリートの意識改革」をお届けします。結果を出してきたアスリートが、現役時代を振り返り意識が変わったターニングポイントは何だったのか?引退したいま、その意識はどう変化したのか。

vol.4でお話を伺うのは室伏由佳さん。2004年アテネオリンピックの陸上競技女子ハンマー投げで日本代表として活躍しました。ハンマー投げを本格的に始めてから5年半という短い期間でオリンピック代表へと選出されるまで、一言では語りつくせない大きな葛藤と悩み、そして父の存在が大きかったようです。いったい室伏さんの意識が変わったきっかけは何だったのでしょうか。

* * *

室伏由佳の言葉

「自分にとってそれが必要だと潜在的に理解していても、目を向けようとしなかったらそれまで。言葉に耳を傾けることが自分の力で切り拓く術」

本気になるほど息苦しくなってしまう

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――父親は、4大会のオリンピック代表で、ハンマー投げの元日本記録保持者である重信さん。兄はやがて父の記録を超える広治さん。ある意味、特異な環境の中で、室伏由佳さんはどのようにして競技と出会い、アスリートとしてのキャリアをスタートしたのでしょう。

室伏:ご存じのとおり、小さい頃から陸上競技との関係がとても密接でした。みんなが公園に行くのと同じ感覚で、私は、父が勤めていた大学の陸上競技場に遊びに行っていたんです。自然と陸上競技を始められる環境が整っていた一方で、やっぱり、本格的に始めるためには特別な勇気が必要でした。どうしても父の競技実績や功績が評価の水準となってしまう状況、つまり過度の期待を寄せられてしまうことは、子どもながらに何となく感じ取っていました

――それはとても大きなハードルだったのではないかと思います。

室伏「結果が出なければカッコ悪い」という感情は、特に10代の頃は常に持っていた気がします。実は私、陸上選手としてのキャリアは短距離選手(100m走)からスタートしているんです。でも、高校生から円盤投げに種目変更するにあたって、投擲(てき)競技への感情はさらに大きなためらいになってしまいますよね。私が投てき競技を始めるというだけで、周囲の目が一気に期待感に変わってくる。当時は、女子ハンマー投げは公式種目になかったため、得意だと感じた円運動である円盤投げに、と父と相談して決めたのですが。

もちろん、私自身にも思い込みのようなものがありました。「投擲(てき)種目を選んだなら、いつかはオリンピックに出られるような選手にはならなければ」という高い水準を自らに要求していたところがあったと思います。円盤投げはすごく好きだったけど、本気になるほど結果を求めて息苦しくなってしまって......。そして、成績が伸び悩むほど、その苦しみが大きくなってしまう。それは、たとえ日本記録を出しても消えるものではなく、やがて私の中ではオリンピックに出場することでしか自分自身を乗り越えられないと感じていました。

――それだけの苦しみを感じながら、どうして重信さんと同じ道を歩むことにしたのでしょう? もし自分が同じ境遇にいたら、"2世"としての道をあえて避けようとする気がします。

室伏:まずは、単純な"興味と関心"ですよね。身近にあってよく知っていたからやってみたい。おもしろそうだ、できそうだという主観的な情報があり、それに加えて、それは"誰か"がすでにやっていて、活躍するための道筋を示しているという事実がある。いわゆる"2世"の多くが、その"誰か"である父と同じことをやりたいと思って始めているケースばかりではないと思うんです。それは、"2世"に対する周囲の勘違いであると思っていて、例えば伝統芸能のように"受け継ぐもの"ではないというか。

――なるほど。そう言われると、"2世"に対して自分も勘違いをしている気がします。

室伏:自分としては、身近にロールモデルがいたから始めたという事実はあっても、その人になろうとは思っていません。ただ、興味からスタートしたものを好きになる。好きになったから、極めたいと思う。追いかけたわけではないのにそう見られてしまうことは、私を含めた"2世"の皆さんにとって、少し歯がゆいところでもあると思うんです。だって、仕方ないことと思いながらも、取材の度に「2世」などと掲載されますから(笑)

だから、特に10代の私が直面していたのは、そうしたバイアスをいかにうまく避け、どのようにして"自分"を作るかということでした。まさにそれが、アスリート時代、オリンピック出場をするのふさわしい自分になるために最も多くの時間を費やしたことだったのかもしれません。

若い日の自分-"父と娘"の直接的な関係を遠ざけていた

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――とはいえ、まだ精神的に成熟していない中高生の頃はつらかったのでは?

室伏:そうですね、まったくと言っていいほど受け入れられませんでした(笑)。取るに足らない自分、何者でもない自分を初めからはっきりと認識していたから、比べられるほど「私は私」と言いたくなる。いろいろな感情を覚えて、大きく揺さぶられてしまうという意味では、単純に思春期ですよね。父にはよく反発しました。競技者として近づくほど父との距離を取りたかったし、競技はもちろん、自分の力で何でもやっていきたいとも思った。もちろん、父であり指導者であるから、「この人と一緒に歩んでいかなければいけない」と分かっていても、そうじゃない方法を見つけようとするんです。

ただ、それは誰もが通る道でもある気がします。私の場合は競技を通じて向き合わなければならなかった点で、少しだけ特異な状況ではありましたけど。振り返ると、大変なのはむしろ、そんな私に語りかけ続けた父だったと思います。そして、"自己流"で成長することができたのは、大学1年から2年まで。3年になるとパタリと止まってしまいました。私にとって、そこが大きな分岐点でした。

――具体的には、どんな出来事があったのでしょう。

室伏:ある先輩に伸び悩んでいることを相談したところ「先生の言うことを聞かなくていいの?」と言われたんです。その言葉に頭を打ち付けられたような気持ちになりました。

当時の私は練習の虫でした。いつもグラウンドにいたから、周りからは「よく頑張っている」と認識されて、それが私にとっての安心材料だったんです。でも、自分にとって大事な人、つまり父の言うことを聞いていないことも周囲の人は分かっていて、見かねた先輩が「由佳ちゃん、すごくたくさん練習してるのに先生の言うことを聞かなくていいの?」と、何気ない会話の中で言いました。私自身、心のどこかでは最終的にそれが必要であると理解していたのに、目を向けようとしなかった。そんな自分に気付かされました。

――先輩をはじめ、周囲の人は分かっていた。重信さんの話に耳を傾ければ、「もっと伸びるのに」と。

室伏:そう思います。だから、「もう一度、トレーニングを基礎から見て欲しい」と父にお願いして、そこから本当の二人三脚が始まりました。

それまでは、"父と娘"の直接的な関係を遠ざけていたんです。自分の競技スタンスを持ち始めたんだと、ブロックしようとしていた。決して対抗しようと思っていたわけではなく、放っておいてほしかったんです。「私は私でやろうとしているのに、どうしてみんなくっつけようとするの?」と、そう思っていました。でも、周りは気づいていたんですよね。その壁を取り払うことができれば、競技者としてもっと成長できるのにって。あの時、あのタイミングで父に勇気を持って言わなかったら、競技者としての人生は大きく変わっていたかもしれません。

私の「回転軸」の中心にいるのは、やっぱり父

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――その後、競技への取り組み方や重信さんとの関係はどのように変わったのでしょう?

室伏:コミュニケーションが生まれたことで、トレーニングの取捨選択の幅が広がりました。ただ、もちろん反発もしました。ケンカもたくさんしました。でも、議論をして、提案されたことを実践し、その時の自身のスキルでは合わせられない場合、アレンジする。そうやってトライ&エラーを繰り返しながら、私自身の"中心となる軸"を作れたことが大きかったと思います。結果的には、それも父のイメージどおりだったとは思うんですけど(笑)。

大学での最後の大会は日本学生記録を樹立。そのあたりから、競技者としての気持ちは一気に引き締まりました。企業へ就職し、実業団選手として競技を継続することを見据えて、父とのコミュニケーションはさらに密接になり、トレーニングにも手応えを感じていました。円盤投げはひとつの形になったので、「今からでもハンマー投げでオリンピックを目指してみたい」と考えたんです。大学4年の秋でした。父に聞くと、「半年後ならちょっと間に合わない。でも、今ならまだ間に合う」という答えが返ってきました。陸上競技のシーズンを終えた大学4年の秋、ハンマー投げの本格的なトレーニングを始めたんです。

ちなみに円盤投げは、実業団に入って最初の試合で、それまでの自己最高記録を2メートル近く上回り、当時の日本記録を破りました。父との二人三脚がはじまって、たったの1年。正直なところ「どうしてもっと早く耳を傾けなかったんだろう」と思いましたね(笑)。それを機に、ハンマー投げの本格的なトレーニングもスタートしました。

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――ハンマー投げを始めるということは、まさに父・重信さん、兄・広治さんと同じ道を歩むことになりますが、世間の目は、気になりませんでしたか?

室伏:円盤投げで日本記録を出した大会で、実は、ハンマー投げにも出場しはじめたところでした。まだ本格的にはじめたばかりで、国際大会に出られるような記録を出せるわけではありませんでしたが、「いよいよ由佳もハンマー投げをはじめた」と、当時はものすごい注目を浴びました。でも、父は「大丈夫。皆さんにはお父さんが説明するから」と言って、メディアの皆さんからのオリンピックへの期待などの質問に対し「まだはじまったばかりですから」と笑って一蹴したんです。あの時は本当に、「父がいて良かった」と心から思いました。

――2004年にはハンマー投げの日本記録を2度更新し、アテネオリンピックに出場しました。確かに、重信さんとの距離を縮めるのがもっと早ければという見方もありますが、でも、時間をかけたからこそ、そこまでたどり着けたという見方もできる気がします。

室伏:そうかもしれません。私自身のキャラクターとして、とにかく自分で何かを切り開くのが好きで、他者から学び取る「モデリング学習」なども得意でした。そうやって、ある程度のところまで自分を高めてからでなければ、父の教えをうまく吸収することができなかったかもしれません。二人三脚になってからは、いつも見守ってくれているという安心感を持てたことが大きかった。父は口うるさく言うタイプではなく、いつでも私の感覚を尊重してくれました。

――アテネオリンピック以降は、スポーツ障害に悩まされました。

室伏:2005年から7年もの間、原因が特定できない急性腰痛症になりました。多いときはひと月に1〜2回ぎっくり腰のような症状を引き起こして。そうしたひどい症状になると、数日は歩けないほどの状態でした。それでもなんとか練習しようとしても、以前のような投てきや練習はできません。地震のように、いつ来るのかわからない恐怖感でした。父も、痛みが出そうならすぐ練習を中断するように、ブレーキをかけるしかなかったんです。やっとオリンピックにたどり着いたのに、せっかく自分を乗り超えた次には、また違う苦しみが待っていました。

その頃から、父は「無理しないで、もういつ辞めてもいい」と言い続けていました。でも、私は「もう少しだけつきあって」と言いながら、数年続けました。ロンドン五輪の選考会までがんばって、それから引退を決断しました。

――引退から5年。つまり、"指導者と教え子"の関係を終えて5年が経過した今、父である重信さんに対して、どんな思いで接していますか?

室伏:私は小さい頃から"お父さんっ子"で、父が大好きなんです。競技者の時はもちろん、父は、私の人生において最も信頼を置いている人です。

一般的な社会生活を始めて5年経って、山の奥で"おもり"を投げていた自分が、ようやくジャージではなく普通の服装をして、いろんな方と出会って、お仕事をし始めるようになりました。分からないこともたくさんあるし、悩むこともあります。だから、競技者ではなく、ものごとを少しは俯瞰的に見られるようになった私として、お父さんに相談することもあるんです。お父さんは私が競技者だった頃と同じように、いろいろな考え方を応用して教えてくれます。だから、いまでもお父さんを頼っているし、父の話はいつも本当におもしろい

そうそう、近くにいるのに何時間も長電話することもあるし、仲良く出かけることもあるんですよ(笑)。私の「回転軸」の中心にいるのは、やっぱり父なんですよね。

室伏由佳

1977年 静岡県生まれ、愛知県出身。2004年アテネオリンピック 女子ハンマー投 日本代表。陸上競技女子円盤投,女子ハンマー投2種目の日本記録保持者(2016年8月現在)。世界陸上競技選手権2005年(ヘルシンキ大会)女子ハンマー投、2007年(大阪大会)女子円盤投の代表。2010年広州アジア大会女子ハンマー投銅メダル。2006年中京大大学院博士課程満期退学(体育学修士号; スポーツ心理学)。順天堂大学大学院博士後期課程において研究活動を継続しながら、現在、上武大学客員教授、朝日大学客員准教授。聖マリアンナ医科大学スポーツ医学講座、徳島大学運動機能外科、奈良県立医科大学、浜松医科大学、中央大学法学部の非常勤講師に登録している。日本陸上競技連盟普及育成委員,国際陸上競技連盟指導者資格CECSレベルIコーチ,日本アンチ・ドーピング機構アスリート委員,JPICA日本ピラティス指導者協会公認指導師,上級救命技能認定。

撮影/高橋宏樹 文/細江克弥

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